創建

大醫山長福寺は、正和元年(1312年)8月、安雪大和尚により臨済宗の寺院として創建される。

薬師堂建立

応仁元年(1467年)、宗覚大和尚の代に、薬師堂が建立される。堂内に奉られている薬師如来立像は建物以前のものであり、安産の仏でもある。

現在も、薬師堂および薬師如来立像が境内南端に残っています。

改宗

慶長5年(1600年)、茨城県結城市にある曹洞宗安穏寺の第10代住職である、曹月存鶴大和尚が来住されて曹洞宗となる。

中興 藤田重信候

慶長9年(1604年)、西方城主藤田能登守重信候が中興開基となり、再修造される。重信候は曹月存鶴大和尚に深く帰依されて、その際、境内約5反、田畑3町余、伽藍などが寄進される。現在は境内に墓所がある。

藤田重信候(?1616年)は、上杉謙信の旧臣でしたが、その後継者である上杉景勝と不和になり、慶長5年(1600年)、関が原の戦いの際には徳川家康に つき、石田光成と呼応して会津で挙兵した上杉景勝に敵対しました。徳川家康はこれを徳として、藤田重信候を西方城主(現在の栃木県下都賀郡西方町)に封じ ました。墓所は境内墓地に入ってすぐ左手にあります。

火災
明治7年(1874年)3月、火災により本堂と庫院が焼失する。この時、多くの旧記や什物が失われるが、「観世音菩薩像」と寺宝の「釈迦如来涅槃図」は住職の手によって運び出されて難を逃れる。薬師堂と山門は場所が離れていたため焼け残る。

この火災の時に、ほとんどの書物が焼けました。現存するものは、檀家の方々のご協力の下に、それぞれの家に眠っていた資料などをご提供いただいてまとめたものです。

本堂再建

明治32年(1899年)、第31代宗光大和尚の代に、本堂が再建される。

屋根瓦の大改修を何度か行い、現在も檀信徒の法要のときに使われています。

山門倒壊

明治35年(1902年)、暴風により山門が倒壊する。

現在は、石造りの山門が立っています。

梵鐘徴収

昭和19年(1944年)、第二次世界大戦のため、梵鐘を徴収される。

終戦後、火災の時の火の見やぐらの鐘として使われていることがわかり、地元の皆さんのご協力の下、長福寺へご寄贈いただき、現在は本堂の殿鐘として法要の際に無くてはならない鳴らし物の一つとなっています。

庫裡建立

第32代真應光隆大和尚の代に、庫裡が再建される。

客殿建立

平成11年(1999年)、現住職の代に、客殿を建立する。

檀信徒の方々が法事で本堂・客殿を利用される機会が増えました。また御詠歌や坐禅会の際にはたくさんの方が集まります。

現在に至る。